「自主性を育てたい」が自主性を奪っていないか

近年のスポーツ指導では、「自主性を育てる」という言葉を耳にする機会が増えました。
選手が自分で考え、自分で判断し、自分で行動できるようになること。その力は、競技力だけでなく、将来社会で活躍するためにも欠かせない能力です。そのため、多くの指導者が「自主性のある選手を育てたい」と考えています。
しかし、ここで一つ立ち止まって考えたいことがあります。
その指導、本当に自主性を育てているでしょうか。
もしかすると、「自主性を育てたい」という思いそのものが、選手の自主性を奪ってしまっているかもしれません。
「自分で考えろ」と言いながら答えを決めていないか
例えば、練習中に指導者がこう言います。
「自分で考えてプレーしよう。」
一見すると自主性を尊重しているように聞こえます。
しかし、その後に選手が指導者の想定とは違うプレーをすると、
「違う、そうじゃない。」
「なんでそんな判断をした?」
とすぐ修正される。このような経験が続けば、選手はどう感じるでしょうか。「考えていいと言われたけど、結局はコーチの答えを当てないといけないんだ。」
そう学習してしまいます。
つまり、自主性を求めながら、実際には「正解」を押しつけてしまっているのです。
自主性と「放任」は違う
一方で、自主性を勘違いしてしまうケースもあります。
「自由にやっていい。」
「好きに考えて。」
「全部任せる。」
これだけでは自主性は育ちません。
経験の少ない選手は、何を基準に判断すればいいのか分からないからです。自主性とは、「何でも自由にすること」ではありません。目的や基準を理解した上で、自分で選択できることです。だからこそ、指導者には「任せること」と「支えること」の両方が求められます。
指導者が安心したいだけになっていないか
実は、自主性を奪う原因は指導者側の不安にあることも少なくありません。
試合で負けたくない。
ミスを減らしたい。
保護者やクラブから評価されたい。
そうした気持ちが強くなると、選手の判断を待てなくなります。
「そこはこう動いて。」
「次はこうしよう。」
「だから最初から言っただろう。」
細かく指示を出した方が、短期的にはチームはまとまりやすくなります。
しかし、それを繰り返すほど、選手は自分で考える必要がなくなっていきます。指導者が安心するための指示が、選手の自主性を奪っていることもあるのです。
自主性は「失敗する権利」から生まれる
自主性を育てるために欠かせないものがあります。それは、「失敗できる環境」です。
自分で判断する以上、間違えることもあります。失敗することもあります。
しかし、そのたびに叱責されたり、すぐ交代させられたりすれば、選手は次第に挑戦しなくなります。
人は失敗を許されるからこそ、自分で考えようとします。逆に、「失敗できない環境」では、自主性ではなく指示待ちが育ってしまいます。
良い指導者は「答え」ではなく「基準」を与える
自主性を育てる指導者は、すべてを教えません。
しかし、何も教えないわけでもありません。
例えば、
「この場面では相手の立ち位置を見よう。」
「攻撃の優先順位は何だと思う?」
「この状況で一番大事なのは何?」
このように、答えではなく「考える基準」を示します。
すると選手は、その基準をもとに自分で判断できるようになります。主体性とは、「好き勝手にプレーすること」ではなく、「自分で根拠を持って判断すること」なのです。
自主性は時間がかかる
自主性を育てる指導は、効率が良いとは言えません。指示を出した方が早い場面もあります。答えを教えた方が、すぐに改善することもあります。
しかし、その速さは一時的なものです。長い目で見れば、自分で考えられる選手の方が、試合中の対応力も、環境への適応力も高くなります。自主性とは、一日で身につく能力ではありません。
小さな判断と、小さな失敗を積み重ねながら、少しずつ育っていくものなのです。
「育てよう」としすぎるほど失われるもの
「自主性を育てたい。」
その思いは、すべての指導者に共通する願いでしょう。しかし、その願いが強すぎるあまり、
「もっと自分で考えろ。」
「もっと主体的に動け。」
と要求だけが増えてしまうと、選手はかえって受け身になってしまいます。
自主性は、命令されて身につくものではありません。安心して挑戦できる環境があり、自分で判断する機会があり、その結果を受け止めてもらえる経験を積み重ねることで育まれます。本当に自主性を育てる指導者は、「選手を思い通りに動かす人」ではありません。選手が自分の意思で考え、自分の責任で行動できるようになるまで、信じて待つことができる人です。
その「待つ勇気」こそが、自主性を育てる指導の本質なのではないでしょうか。